鼓動、千々に

闘病記。あした天気になあれ。

がんになった

正直、今でも信じられないというか自分のことだと思えないというか、これは前からあったことだけど「私って、誰?」と思う瞬間があったりとか、こんなふうに文章がむちゃくちゃになる程度に、とにかく現実として受け入れられていない。普通にめちゃくちゃ嫌だもん、がん。でも、もう何度目か分からない針の痛みとか吐き気とかを感じるたび、悲しいけどこれ現実なのよね...ってなってる。

闘病記...というか、つらいとか苦しいとか悲しいとか、そういう思いを吐き出したいという思いもあるんだけど、それ以上に受けた優しさとか温かさとかがあって、それから治療の間にも喜びはあったなとか、そちらを忘れたくないという気持ちの方が大きくて、いまこうしてブログを書いている次第。なので、つらつらとマイペースに諸々書いていきたいと思います。


11月の頭。身体に違和感を覚えて婦人科を受診。診断は「なんかよく分からない」(マジでこう言われた。せめて「専門外」とか言い方あるよね)その上で、抗生物質を処方された。5日間服用したものの変化はなく、再度診察を受けた。診断は「なんかよく分からない(2回目)」と「経過観察」であった。「よく分からない」のに経過観察とかよく言えるなヤブ医者ァ!と不信感MAXだったので、紹介状を依頼した。大袈裟ですね(呆)みたいな顔をされたけど、書いてはくれたので良かった。すぐに総合病院へ予約の電話をするも、空きは12月の中旬だと言う。とりあえず予約を入れた。

11月下旬。総合病院の予約まで2週間以上もあり、不安で仕方なく、いてもたってもいられず2件目の婦人科を受診。「前に炎症を起こしたりしたものが硬くなったんでしょう」とのことでこれまた経過観察の診断だった。ただ、1件目とは違って、きちんと「診てくれてる感」があったので多少安心した。

12月中旬。総合病院を受診。細胞の採取を試みるも失敗。良性か悪性かの判断がつかないのでMRIを撮りましょうとなる。MRIは以前1度経験があるものの、閉所と大きな音が苦手なので嫌な思い出しかなかった。2回目を受けて、あれは「初めから(機械に入る前から)目を閉じておくこと」で閉所恐怖症に関してはある程度対応できると気付いた。広い所から狭いところに行くからダメなので、最初から広いとか狭いとか感じないようにすればよいという暴論。でも実際楽になったよ。音については「ライブ前にステージでチューニング(?)しているベースとギターの音」に思えて、なんなら多少わくわくした。ケリーさんありがとう。

12月下旬。MRIの結果が芳しくなく、別の総合病院を紹介される。「総合病院が総合病院を紹介する」ことに若干の恐怖を感じつつ、2件目の総合病院を受診。婦人科→皮膚科→骨軟部腫瘍科を転々とする。最後に辿り着いた「骨軟部腫瘍科」は初めて聞いた科の名前であまりピンとこなかったが、診察室の前の掲示物の大半が「がん治療」に関するものだったことで理解...というか察した。結構待って(飛び込みのような物だったから)診察と細胞の採取をしてもらった。患部に注射を刺して細胞を抜き取るんだけど、これがめちゃくちゃ痛くて泣いてしまった。1件目の総合病院で婦人科の先生が同じことをしようとしていたけど失敗に終わっていたことと、私があまりに痛がるもので、通常2回採取するのが1回になってしまったことが心配だったが、なんとか採取はできたとのことで安心した。そして結果が出るのに2週間かかること、正月休みを挟むので更に1週間かかると告げられた。結果は正直聞きたくないと思ったので、一時の猶予をもらったような気持ちだった。この時も夫は同行してくれていて、これが本当に心強かった。これは今でも続けてくれていることで、仕事の合間、疲れているだろうに文句も言わずで...本当に申し訳ないなぁと思っている。それから細胞診の結果が出るまでの3週間、不安は残りつつも、お正月を楽しく過ごしたりした。

1月中旬。診察の予約日を待たず、病院から着信があった。細胞診の結果が「悪性」であること、次の診察までにCTを撮ってくるよう指示があった。これまでは正常性バイアスがゴリゴリに働いていたので、不安に思いつつもそこまで思い詰めてはいなかった。が、この電話で気持ちが一気に負に傾いた。別の病院でCTを撮って(造影剤、喉から肛門に向かって熱が走っていく感覚が今でも忘れられない)、その場でCDを作ってもらった。すぐに予約が取れたらその場でCDを受け取れたり、提携してるとはいえすごい。こうやってぽんぽん物事が進むのはそれだけで安心感がある。その足で総合病院へ向かい、改めて診察を受けた。診断は「がん」。頭が真っ白に...ならなかった。恐怖もなかったし涙も出なかった。それよりむしろ、今どういう状況で今後はどうなるのか、各方面へ報告する際に必要な情報は何か、聞き漏らしはないかなど、いつもよりめちゃくちゃしっかりしていた。先生の話を聞き終え、会計を待っている最中に、職場への報告メールの文面を作った。夫と両親にはLINEで報告を済ませた。「混乱を防ぐため、感情を交えず事実のみを記載する」そんなことを考えながら文章を書いていた。この時点でもまだ私は全く冷静だった。会計を終えて病院を出ると、日がすっかり落ちていて辺りは真っ暗だった。駅に向かって特に何も考えず歩いていると、唐突に涙が流れた。涙に気づいた瞬間、号泣していた。どうして私が、この先どうなるの、ありきたりだけど、そんな事を考えていた。すぐに家に帰りたかった。だから号泣したまま、足を進めていた。すれ違った人はびっくりしたかな。涙でほとんど見えてなかったから、誰かとすれ違ったかは分からないんだけど。

その日の夜、母と電話で話をした。報告自体は済ませていたから、詳しい話というより頑張れ、頑張れという励ましだったと思う。泣いたいたので記憶が少し曖昧。母も泣きたかっただろうけど、気丈だったと思う。母は強し。

仕事だった夫も電話をくれた。報告をした直後は、ショックで動転していたそうだけど電話口からはそんなふうには感じられなかった。彼もまた強い人である。30分ほど話をして、あとはまた明日と電話を切った。直後、またたくさん泣いた。

入院まで日がなかった。本当に申し訳ないのは仕事で、何年も担当した仕事をたった半日で引き継ぐという、引き継がれる側にとっては地獄のような引き継ぎをすることになってしまった。自分自身、それほど仕事ができるような人間とは思っていないけれど、雑務だって誰かがやってくれなきゃ困るわけで。なので大変なご迷惑をおかけしてしまったのだけれど、「仕事のことは心配しないで、席は残しておくから元気になって戻っておいで」と言ってもらえたことが本当に嬉しかった。何度も言うのは悲しいけれど、組織への貢献度はそれほど高くないというのが自己分析の結果なので(反省しろ)、そんなふうに言ってもらえるのは本当に本当にありがたかった。この恩は、職場復帰したら必ず返そう。そのために、しっかり元気になろう。そう思った。報告と引継ぎを終えると、そこそこ遅い時間になっていた。明日からしばらくは、もう出社しないのか...こんなふうに強制終了されるなんて、誰が予想しただろうか。「仕事しながらがん治療」という人が増えているのは知っていたので、先生に聞いてみたけれど、残念ながら私には難しいとのことだった。治療を始めた今なら分かる。治療と仕事の両立、完全に無理ゲーです本当にありがとうございました。

家に帰ると夫がいた。検査や引継ぎが大変でーなんて話をした。本題の話はしたくなかったのだと思う。ご飯を食べて、さあお風呂という時、夫にしがみついてわあわあ泣いた。謎のタイミングで夫は困り笑っていたけれど、私としては「今」だったのだから仕方ない。泣いて泣いて、泣き疲れて泣き止んだ。夫が居なかったら、私は潰れていたかもしれない。つらい思いをさせてしまって申し訳ないのだけれど、それでも夫が居てくれて良かったと心から思う。

 

それから3日後、入院での治療が始まった。その話はまた次にでも。

そういえば、タイトル決める時に迷ったんだけど、告知と宣告の違いってなんだろう。少し調べたら、宣告の方が重めって感じだったけど...私にとってはなかなかショッキングな出来事だったので、宣告の方を使っちゃいました。